宝石の記憶 - 涙色の宝石

【 涙色の宝石 】

 クジラの声が聞こえる。
 あの声が水を揺らしながら海じゅうに響き渡ると、いつもソワソワしたものだった。みんなして珊瑚に腰掛け、あの大いなる生きものを待った。はてしなく優美なあの生きものは、わたしたちにとって神さまのようなものだった。神さまを見上げるとき、いつも水面には光が満ちていた。太陽や月がきらきらとクジラの進路を光芒で示すさま。それはまるで天使がクジラにまたがり地球をぐるっと浄化して回っているようで、わたしたちは思わず両手を組み合わせ、祈りを捧げずにはおれない。
 クジラの声が聞こえる。
 それはたとえば、うんと静かな月夜の晩。
 クジラの声が聞こえる。
 水面を仰いで泣いているときや、海底深くまで祈るときに。
 モールス信号のような星のまたたきにまじって、クジラの声が。

 ―――クジラが、聴こえる。

◇ ◇ ◇

 人間でいることは、ただそれだけでとても大変だ。
 なにかを食べるにも段取りが必要であるし、数え切れないほどの決まりごとがある。たとえば、そのへんに成っている果実をとって食べるにも許可がいるし、いい感じの野原を見つけたからと言って勝手に家はつくれない。息をするだけでも許可が必要な気がしてきてしまう。
 こんなに大変だと知っていたら「人間になりたい」だなんて言わなかったのになあ、と思うのだけれど、朝、郵便配達にやってくるポストマンのすらっと長い足が一生懸命に自転車を漕いでいるのを見たりすると「人間も捨てたものではない」という気にさせられてしまう。人間は移動のためにいろんな道具をこしらえる。二つの車輪で動くあの不安定な乗り物を悠々と乗りこなしてしまう二本足はやはり美しく、わたしもいつか、あの乗り物を自由自在に動かしてみたいと憧れる。
「あのポストマン、絶対、ユリヤに気があるよ」
 と、親友のパールがわたしの背中を背もたれがわりにして本を読みながら言う。
「ユリヤ、きれいだもんね」
「やさしいし」
「大人っぽいし」
「ずるいよねえ」
「ねえ」
 ちいさな一軒屋でともに暮らす、“人間もどき”の仲間たちが口々にわたしを囃したてた。
「ところが残念なことに」パールが本をめくって笑う。「こいつの頭ん中、ちょいとばかしトんじゃってるからなあ」
 仲間たちがどっと笑った。ポストマンは郵便物をポストに押し込むと、ちら、とこちらを見た。わたしはあわててレースのカーテンを引き寄せて隠れる。一瞬、目があった。わたしは高鳴る鼓動を押し殺し、レースの網目ごしに彼を見つめつづけた。あしながのポストマンはしばらくこちらを見つめたあと、去っていった。
 「ユリヤ」と、わたしの胸の高鳴りを背中越しに聞いていたパールが念を押すように身体をもたせかける。「―――ダメだよ。恋をしては」
 わたしたち『人魚』にかけられた魔法は、人間に恋をすると溶けてしまう。
「わかってるわ」
 わたしはポストマンのいなくなった大通りを見つめたまま答えた。パールが本をめくる。言葉と裏腹なわたしの鼓動を、パールは一体、どう思っただろう。