宝石の記憶 - 無色の宝石

【 無色の宝石 】

 ぼくたちの魂はかぎりなく透明に、可変的になったのだ、とある思想家は言う。その対岸では、えらい科学者がぼくたちの身体をミクロに分解して単純な数式にしてしまおうと躍起になっている。
 思想と数式の間でもみくちゃにされながら、毎朝、ぼくたちは己の身体の支配権がどこに在るのか確かめる。ぼくたちはすでに、ぼくたちであって、ぼくたちではなく、ぼくたちであるところのぼくたちを持て余しつつあるのだろう。いっそ、ぼくたちはぼくたちであることを諦めるべきなのかもしれない。

◆ ◆ ◆

「あ、居た居た、トワー!」
 植物園のはじっこの小さな泉で水浴びをしていたぼくは、自分を呼ぶ声に振り返った。けれど、あたりを見渡せど声の主が見当たらない。
「ゴーシェ? どこ?」
 濡れ髪をぎゅうっと絞りながら泉をでると、ボタボタ、と雫が地面にシミをつくった。このシミの具合、髪の吸水具合で、ぼくは自分の体調を推し量る。今日は、まあ、そこそこ、と言ったところか。
「ここ、ここ」
 声のするほうへ顔を向けると、オリーブの木陰に、ぼくようやくゴーシェ―――学校のクラスメイトであり、性格は全然ちがうのに、なんだかんだ気が合うのでいつも一緒にいる女の子の姿を見つけた。ゴーシェは長い腕をおおいに振り上げてぼくを手招く。ぼくはびしょ濡れのシャツを肌にひっつかせたまま、彼女のほうへ歩いていく。
「エミル先生が呼んでたよ。トワぁ、あんた、また授業中に居眠りしたんだっって?」
「どうしていつもゴーシェが呼びにくるんだよ」
「そりゃあ、私があんたを見つける天才だからよ。・・・・・・堪忍しなせえ、旦那。どこに逃げたって、このゴーシェ様からは逃げられませんぜ、ワハハハ」
「なんだよ、今日は劇画ごっこか? 後生ですから見逃しちゃあくれませんかね」
 ゴーシェは本やら、授業の内容にすぐ影響を受ける。おおかた最近受けた授業、古代人間史の影響だろう。
「何回目よ。だめだめ、見逃し三振。もうアウト」
「は? なにそれ」
「野球よ、知らないの? 昔のスポーツ。てか、こないだ体育座学で習ったばっかじゃん」
「知らない」
 さては寝てて聞いてなかったのね、とゴーシェはニヤニヤした。言葉のキャッチボール、という昔の慣用句があって、それも野球が由来なのだとかなんだとか。勝手にウンチクを語りながら、ゴーシェはぼくを植物園の出口に引っ張っていく。
「さっさと怒られてきなよ。わたし、ここで待ってるから。終わったら一緒に帰ろ」
 植物園から一歩外にでると、たちまち冷たい風がふきつけた。
 長い、長い、冬のまんなかにあるぼくたちの世界―――あらゆる生物が住処を終われ、身を寄せ合うことで永らえている世界。
「ゴーシェ」
 ぼくは彼女を振り返り、彼女は「なあに」と首を傾ける。
「泉の水に少し、毒素が出てる。原因、あとで見ておいてくれないかな」
「ん、おーけー。まかせといて」
 ゴーシェはおおきくうなずいた。
 そのとき強い風が吹いてきて、ぼくはおもわず身を屈めた。濡れた髪の毛が凍りそうだ。ゴーシェに手を降り、白亜の校舎に向かってそそくさと駆け込んだ。
 校舎の真上では、つくりものの太陽が夕方四時のあたりに傾いていた。きっともうすぐ、パチン、とスイッチが切り替わって空がオレンジ色になるだろう。やがて闇がせりあがってきて、月と星が浮かび上がるシステム。太陽と月がいなくなったこの世界を照らしているのは、すべてニセモノの光。ぼくはこのニセモノの光しか知らない。・・・・・・ときおり無償に嫌気がさす。でもそのくせ、ぼくはあんな光でも失いたくないなとと思う。
“植物と身体を分け合って”生きているぼくは、光なしでは生きていけないから。